紡ぎ車と世界の原毛アナンダ

手芸と手作り・・・・似て非なるもの

手芸と言うと、材料や作り方がセットされていて、お手本がある。完成した姿が、きちっと決まっているから、そこには自分を表現する楽しさは少ない代りに、自分が表現されてしまうという不安も少ない。到達点が決まっている安心の中で、決められた手順どおり、きちっと作業する楽しみを積み上げていくように出来ている。個人の心の表現は無いから、完成すると、これも安心の一つなのだが、商店に陳列されて売られている商品のようなものになる。木目込み人形や造花、刺繍など、その配色の美しさ、作り方、材料選びとセットの価格に至るまで感心させられるものが少なくない。余程の才能、しかも商才にたけた人が創作し仕組むのに違いない。
一方、手作りと言うと、手芸と決定的に違うのは百点満点の「お手本」が無い事。作業をこなして予定どうりの完成品という訳には、たいてい行かない。作りたい物ははっきりしているのに、出来上がりは漠然としている。作っている過程で手持ちの材料の都合や、まして草木で染めたりしようものなら、季節や天気にも左右されて、どんどん変わっていく。偶然を相棒に物が生まれるようなものだから、出来上がってくると、まるで生まれ落ちる自分の子を見るように何かおもはゆく、わくわくしながら「なかなか良いじゃないか、そう、とっても良いぞ、これは」という事に、たいていなってしまう。お手本に近づけるという考えが無いから、どこの部分が間違いだの悪いだのと言う、比較減点法でやってくる、品質管理者の目は無い。目的、用途に対してどう工夫して作るかという目だから、やはり、出来ると、それをうっとりと見つめることになる。曲がったマフラーも、まっすぐでなければならない理由など、どこにも無い、とばかりに開き直って、自分の感覚を思いっきり大切にする。腹を据えて、自分が手作りするのに、客観性や公正さに何のことがあろうか。というのです。
いつか、どこかの東急ハンズの包装紙か何かに「手の復権は心の復権」と書いてあって感心したことがある。これは偉い人が書いたに違いない。本当は「手の復権は個の復権」と書きたかったのを、コマーシャルに和らげたのだろう。手で作ると、百人が百様の物を作ってしまう。そういう手作りが生活の中に戻って来ると、個々の違いがもっと大切にされるようになる。みんなと同じでなければ笑われるとか、変わってるといじめられるとか、まして先生に、服装、髪の毛の長さまで、お手本と照らし合わせてチェックされ、管理されるような事は無くなって、お母さんの手作りのセーターで登校できるような雰囲気の学校や社会が来るに違いない。これはまさに心の復権です。
学校では入学式での校長先生の決まり文句「個性尊重」が、いつも、とてもしらじらしく講堂に響きますが、校長以下、先生方みんながほんのちょっと自分のマフラーや息子のセーターを手作りするって事にした方が効果的でしょう。しかし、また、職業柄、正しい正しくない、善い悪い上手下手と、人の作ったものを比較管理するのが始まるんですよね。これが、本来、学校教育が手芸的で、出来上がりがみんな同じ、で、・・・
下手で結構、いろいろあって「それで良いんでないかい」という感じの世界が、近々、きっと来ますよ。(阿)1990年春号(No.6)掲載

大いなる不揃い

 「手作り」という言葉はいつ頃から使われだしたのでしょう。ことさら手作りというのですから「機械作り」が世の中に出回ってからのことにちがいありません。今ではほとんど何にでも「手作り」の付いた商品広告が見られます。また、マスコミでは手作りの音楽会とか、手作りの教育などという使い方もされます。こうしてみると「手作り」という言葉が今の時代の何かを意味しているに違いないのです。デパートはもう十数年も前に「手作り商品」の売り場を作り始めました。その売り場を企画する人は「手作り」の持つ二重の意味をはっきり意識して使い分けています。有名ブランドものを身につけた、良いもの好きの人が、「これは手紬、手織なんですのよ」と言うときの古い意味での「手作り」、これは「格別の高級品」を意味しますから、これには権威ある産地や作家の銘が必要です。ところが新しい「手作り」はむしろ逆に、社会的な権威や格付けから離れて「個人的で不揃い、規格外の素人ぽいもの」なのです。これで人間味や手の温もりを商品にしようという訳です。が、面白いことに、この新しい「手作り」は商業主義とは本質的に矛盾していますから、彼らはそれが売れれば売れるほど「手作り」を「量産」するはめに陥るのです。それでラベルだけ手作りふうの量産品がまた一つ世にでるという訳です。
 昔は、物が作られるときは、ある個人が特定の個人のために作りました。作り手と使い手が近くに居て知り合いだったのです。人口が増して商人が物を商うようになると当然、仕入先(作り手)と、お客(使い手)とは、商人としては、出来るだけ個人的に知り合ってほしくない訳です。そして、商人が作り手を集めて工場となし、使い手を消費者と呼んで生産の過程から個人的なものを消し去って、・・個人的なものはひどく不能率なものですから。・・製造と流通を合理化しました。これに依って、安く大量に、良質のものが行き渡りました。実際彼らの努力、つまり個人的なものを消し去る努力無しに、これ程の人口を支える大量の物資の生産は考えられません。しかし、ここに来て、物資足りて、私達はなんとなく勘付き始めたのです。毎日手にする物や道具から「個人」がきれいに消し去られてしまっている事にです。
 効率という物差しに貫かれた「揃い過ぎた世界」に慣らされてしまい、ついに人間まで平気で品質管理から生まれた言葉、「偏差値」というので揃えようという時代ですから、今、不揃いな「手作り」がたまらなく面白い。そこには揃えようのない、作り手の独断と矛盾に満ちた「個人」が中心にあって、一つの物語として物が生まれる。・・・ところがです。私達は骨の髄までやられていて、やっぱり世間に通用するような、できることなら世間で立派と評価されるような物を作れたらなどと思ったりして良く揃った量産品をお手本にして、一生懸命に技術を磨いたりなんかして。ましてそれが子育てとなると子供に「不揃いで良いのだよ」などとはなかなか・・・(阿)1990年冬号(No.5)掲載



S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

アナンダブログ

紡ぎ車と世界の原毛アナンダのおすすめやお買い得、いろいろなノウハウ、また講習会やイベントの様子をお知らせしています。
また、アナンダの会報「糸ばたかいぎ」に連載のコラムもさかのぼって掲載してありますので、どうぞお読み下さい。

最近の投稿

カテゴリー

アーカイブ

記事検索

購読

ケータイ

qrcode
***
ページの一番上に戻る